明治18年(1885年)に吾妻第三小学校として開校し、昭和53年(1978年)、明治初期の洋風学校建築の数少ない建造物として、群馬県指定の重要文化財となりました。
その後、町の歴史民俗資料館として活用され、さらに平成22年(2010年)11月15日に、群馬県博物館登録原簿に登録されました。
明治政府は日本近代化の為、欧米の制度や文化を積極的に取り入れる文明開化策をとりました。
明治5年(1872年)の太陽暦採用により従来の時刻制度から一日を24時間とする定時法となり、外国の時計が輸入されるようになりました。
明治初年(1868年)に日本に入ってきたのは八角型掛時計でした。
明治中期から四つ丸型が、大正期になると長方箱型の掛け時計が出てきました。
いずれの時計も最初は外国製でしたが明治中期頃から日本製の掛時計が作られました。
懐中時計は掛け時計より少し遅れて日本に入ってきました。
1869(明治2)粘性のロンジン社の金時計を入手した薩摩藩主島津忠義はこれを西郷隆盛に贈り、現在この時計は鹿児島市集古集成館に保存されているそうです。
最後の一文に
『現在の日本は戦後、時計工業が発達を遂げた結果、質・量共に世界一の時計生産国になっている』
と書かれていますが、機械式時計の質では世界一ではありません。
様々な物が展示されており、中には古い時計もありました。
この和時計は太安堂本店内にある横須賀腕時計博物館に展示してあるものです。
本来ですと下に箱があり、動力となるおもりがぶら下がっていたと思われます。